もう、前には戻れなかった

三十代半ばの頃だった。

娘はまだ三歳くらいで、

私は相変わらず夜勤をしていた。

ある日、看護師長をしている友人と、

仕事終わりに食事をした。

他愛もない話をしている中で、

ふと、年収の話になった。

普段なら、避けていた話題だったと思う。

でもその日は、なぜか自然に聞いてしまった。

「師長って、年収どれくらいなの?」

返ってきた数字を聞いた瞬間、

私は一瞬、言葉を失った。

夜勤をしていた頃の私と、

ほとんど変わらない年収だったからだ。

責任も、業務量も、

私とは比べものにならないはずなのに。

「……あれ?」

胸の奥で、何かが音を立てて崩れた。

これまで信じてきた前提が、

静かに揺らいだ瞬間だった。

その日から、

私は同じように働けなくなった。

夜勤をすれば収入は増える。

役職につけば、少しは年収も上がる。

そう信じてきたはずなのに。

「本当に、そうなんだろうか」

そんな疑問が、頭から離れなくなった。

不動産を始めてから、

私の年収はむしろ下がった。

夜勤を減らし、

働く時間も減った。

でも、不思議なことに、

できることは増えていった。

選択肢が増えた。

時間の使い方も、

お金の使い方も、

自分で決められる範囲が広がった。

収入が減ったのに、

人生の自由度は、少しずつ上がっていった。

その感覚は、

看護師として働いていた頃には、

一度も味わったことのないものだった。

一番怖かったのは、

失敗することではなかった。

「周囲がやらないことをやる」という選択だった。

看護師の世界では、

同じ道を歩くことが、暗黙の安心だった。

夜勤をする。

昇進を目指す。

定年まで働く。

そのルートから外れることは、

どこか裏切りのような気がしていた。

もし違う道を選んだら、

孤立するんじゃないか。

理解されないんじゃないか。

そんな不安が、ずっとあった。

でも、気づいてしまった。

一度、仕組みを知ってしまったら、

もう前には戻れない。

知らなかった頃の自分には、

もう戻れなかった。

安定という言葉の裏側にあるものも、

努力と収入が必ずしも比例しない現実も、

見えてしまったから。

あのとき、

友人の年収を聞かなければ、

私は今も同じ働き方をしていたと思う。

忙しさに追われながら、

「これが普通」と自分に言い聞かせて。

でも、私は知ってしまった。

知ってしまった以上、

見なかったことにはできなかった。

「戻らない」ではなく、

「戻れない」。

それは、少しだけ怖くて、

でも確実に、前に進んでいる感覚だった。

私は、そこで初めて知った。

人生は、

気づいた人から変わっていくんだということを。

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